心の仕組み

 

心の仕組みを解き明かすためには、心理学や脳科学を学ぶ必要があると考える人は少なくないかもしれません。一般的には、心理学を修めた臨床心理士や公認心理師が心の専門家と言われています。

 

 

近年では心は脳から生まれるという主張があり、心理学者や心理臨床家も積極的に脳科学を学び、現場での実践に役立てようとしています。

 

 

ここ数十年、fMRIなどの発展によって脳の動きがリアルタイムで観測できるようになり、人体最大のブラックボックスであった脳のことがかなりわかってきました。

 

 

心のことがもうすぐ解明されるのでは?と期待が膨らむ人がいるかもしれませんが、期待に反してこれら科学的な測定や分析では、心の仕組みを解明するには限界があることもわかってきました。

 

 

このままでは最大の謎とされている心の仕組みを、解き明かすことが出来ません。そこで科学者達が目をつけたのが、仏教です。

 

 

仏教は宗教というよりは「どう生きるか?」を追求した哲学や思想です。仏教は「信仰」ではなく「教え」であり、心の仕組みを追求した理論体系でもあります。

 

 

「どう生きるか?」を追求するには「心がどんな仕組みなのか?」を知る必要があります。

 

 

そこで瞑想という行為を持って、修行僧たちは徹底的に自分を観察しました。心の中で生じるものや動きだけでなく、つま先から髪の毛の先まで身体も丁寧に観ていきました。また自分の外側に広がる世界も五感を通して、ありのままに観察することを行いました。

 

 

その結果、多くの修行僧の中で最初に心の仕組みを解き明かしたのが、皆さんご存じの釈尊です。

 

 

釈尊は自身が解き明かした心の仕組みを元に、様々な人を苦しみから救いました。その中から釈尊から学びたいという人も増え、活動や影響力が大きくなり仏教が作られたのです。

 

 

その後、釈尊が解き明かした心の仕組みを天才的な弟子たちがアップデートさせて、唯識という思想が生まれたのです。

 

 

この唯識が凄いのは、最先端の現代物理学を完全に網羅しているということです。測定機器など一切なかった2000年前に瞑想や観察という行為だけで、そこに到達したのは凄いとしか言いようがありません。

 

 

科学者が仏教に注目するのは当然のことでしょう。最先端の科学と考えられていた理論が何千年も前にすでに確立されていたのですから。

 

 

心を知るためには、心理学や脳科学を学ぶだけでは不十分です。科学者や臨床家を始め、私たちは仏教や唯識を学ばないといけない時代が来ているのです。

 

 

 

仏教では心をどう捉えている?

 

仏教では「眼」「耳」「鼻」「舌」「身」で得た情報を「意」で処理することによって、心が作り出されているとしています。

 

・眼識

・耳識

・鼻識

・舌識

・身識

・意識

 

これら6つを六識と呼び、これら六識で一切の対象を処理することで心が生み出されると分析します。

 

 

こうした六識の分析を含めた教えを仏教では「法」と言います。「法」とはサンスクリットの「ダルマ」ですが、意味は「不変の真理」です。

 

 

「ダルマ」の核心は「全ての苦しみや悩みは、人間の認識作用が生み出したものに過ぎない」「不幸は外からではなく、自分の内側で作られている」といったもの。

 

 

言い方を変えれば「この世は幻」であり、あなたの悩みや苦しみは「あなたが作り出したバーチャルリアリティー」であるということになります。

 

 

つまりあなたが見ている世界は、あなたの脳と心の捉え方や認識によって見えている世界で、現実をありのままに観ているのではないのです。

  

 

しかしこれだけでは心の仕組みの説明としては不十分です。

 

 

なぜなら六識だけの処理で「私の世界」が作られているとすると、外部の刺激が変われば「私の世界」もそれに伴って変わらなければいけませんが、実際にそうはなっていません。

 

 

例えば、「私」という連続性です。

 

 

1年前の私と今日の私には連続性があり、つながっています。つながっているからこそ、何か心が揺さぶられても「私」というアイデンティティが保たれるわけです。

 

 

「私」という連続性があるから、他人との関係も成立し、コミュニケーションを深めることが出来るのです。

 

 

私たちは言葉で意思の疎通をしていますが、その言葉も同じ文法やニュアンスを持っていないと意味が通じません。このような言語でのやりとりも六識だけでは説明が出来ないのです。

 

 

 

阿頼耶識

 

そこでこれを補足するために出てきたのが「唯識」という考え方です。唯識では六識の下に末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)の二つの識があるとしています。

 

 

阿頼耶識の「阿頼耶」はサンスクリットの「アーラヤ」で「蔵」「住処」という意味になります。

 

 

阿頼耶識は私たちの認識活動の最深部にあり、生まれた瞬間から死ぬまでの経験の全てが蓄えられているとされます。

 

 

五感を通じて見聞きしたもの、勉強して蓄えた知識や情報など全てがここにあり、阿頼耶識に蓄えられている情報はなくなることはありません。

 

 

この阿頼耶識が私たちの中心になっているから「昨日の私」と「今日の私」に連続性が生まれ、変わらない自分自身が存在するのです。

 

 

さらに阿頼耶識に蓄えられているのは、個人の経験や情報だけではありません。それとは別に先天的に、文化的なもの、歴史的なものが含まれているとされています。

 

 

しかし残念ながら私たちは阿頼耶識の存在を感じたり、操作することは出来ません。そして私たちが使える阿頼耶識の情報は一部でしかないのです。

 

 

 

末那識

 

もし私たちが阿頼耶識に蓄えられている知識や情報を自由に使えるのであれば、一度読んだ本や触れた知識は忘れないでしょう。

 

 

しかし実際には読んだ本の内容は忘れるし、勉強したことも忘れます。

 

 

なぜそうなるのか?

 

 

それは私たちの意識と阿頼耶識の間に末那識が存在するからです。末那識があるから、私たちは阿頼耶識に直接アクセスすることが出来ません。

 

 

末那識の「マナ」とは「自我」や「エゴ」という意味で、末那識には次の4つの煩悩があります。

 

・我癡(がち)

・我見(がけん)

・我慢(がまん)

・我愛(があい)

 

これら強力な煩悩があるため、阿頼耶識に直接アクセスすることが出来ないのです。

 

 

 

阿頼耶識を裏付ける事実

 

阿頼耶識や末那識は本当にあるのか?ただの仮説に過ぎないでしょ?と考える人は当然いると思いますが、近年では阿頼耶識、末那識の存在を裏付けるような話が出てきています。

 

 

例えば「ハイパーサイメシア(超記憶症候群)」です。これは自分が体験した記憶を細部まで全て忘れない人のことで、世界で80人ほど確認されているそうです。

 

 

もう一つは「サヴァン症候群」と言われる人達です。精神障害や知的障害を持っていますが、ある特定の分野において桁外れの能力を発揮します。

 

 

イギリスの建築画家であるスティーブン・ウィルシャーは、どんなものでも一度見たら絶対に忘れない「映像記憶」の持ち主で、一度見た風景をその時の記憶だけで、細部に至るまで描くことが可能です。

 

 

これはまさに阿頼耶識から情報を取り出していると捉えることが出来るのではないでしょうか?

 

 

ではなぜ彼らは私たちとは違い、阿頼耶識から自由に情報を取り出すことが出来るか?それについても興味深い仮説があります。

 

 

サヴァン症候群の人達の脳をMRIなどで検査すると、左脳に損傷があることが多く、それを補うために右脳が通常よりも活性化していることがわかったのです。

 

 

左脳には言語や論理を処理する能力があります。サヴァン症候群の人達に言語的障害が多く見られるのは、左脳が損傷しているからです。

 

 

これを唯識説に当てはめると、左脳=末那識、右脳=阿頼耶識となります。

 

 

サヴァン症候群の人達は、左脳が損傷しているため、末那識の働きが制御されているため、阿頼耶識の情報を取り出しやすいのでは?と考えることが出来ます。

 

 

末那識は自我です。自我とは理屈や論理、つまり言語化です。言語が私たちの心を束縛し、傲慢や執着を生み出します。

 

 

私たちの世界は、言語で束縛された心が作り出したものであり、瞑想や禅はそこから脱するための方法でもあるのです。

 

 

 

煩悩が苦しみの原因

 

私たちには煩悩があります。煩悩とは簡単に言えば欲望のことです。

 

 

「もっとお金が欲しい」「モテたい」「出世したい」「大きい家に住みたい」「美味しいものが食べたい」など人間なら誰しも持っている欲ですね。

 

 

これら煩悩を持っていること自体は生きている以上、仕方がありません。問題は煩悩があることではなく、それに囚われてしまうこと。そして自分自身が煩悩に囚われていることに、まったく気づいていないことです。

 

 

私たちの苦しみや悩み、問題を作る原因は煩悩があることではなく、煩悩に囚われることです。

 

 

私たちは煩悩に囚われてしまうと、自分の意思とは無関係に、煩悩がどんどん膨らんでいき、それが私たちの心を飲み込み、苦しみや悩みを生じ、肥大化させるのです。

 

 

苦しみや悩みを手放すためには、煩悩の囚われから抜け出すしかありません。ここで勘違いして欲しくないのが、煩悩に囚われてはいけないが、煩悩を消す必要はないということです。煩悩を否定したり、ないものにすることではありません。

 

 

仏教でも「煩悩を消せ」とは言っていませんね。「自分でコントロール出来るくらいにしておきなさい!!」と言っているのです。つまり囚われるなということです。

 

 

ではどうすれば煩悩に囚われないようになるのか?

 

 

そのためにはまず、煩悩の正体を知る必要があります。私たちは煩悩について無知です。無知だからどう扱えばいいのか?どう捉えればいいのか?が見えてきません。

 

 

煩悩の正体をしっかりと知ることで、煩悩に対して囚われないように適切な対処が出来るようになるのです。

 

 

 

煩悩の正体

 

煩悩には「根本煩悩」とそれに付随して生じる「随煩悩」があります。

 

 

【根本煩悩】

 

・貪

「もっと欲しい」「手放したくない」という執着。

 

・瞋

「欲しいのに手に入らない」と貪が叶わないときに生じる怒り。

 

・痴

執着に囚われていることを自覚せず、物事の本質がわからない状態。

 

貪、瞋、痴の3つは心の三毒と呼ばれています。

 

・漫

慢心や傲慢、うぬぼれ。漫には7つの種類があります。

 

・疑

真理に対する疑念、正しいことを信じられない、他人を信じられない。

 

・悪見

自己中心的な偏った見方しかできないこと。

 

 

 

【随煩悩】

 

・忿(ふん)

怒り。いきどおり。瞋に不随して生じる。

 

恨(こん)

恨み。自分の気に入らぬ人を怨み続ける心。忿に続いて起きる。

 

覆(ふく)

自分が犯した誤ちの隠ぺい。不利益を被ることを恐れて罪を隠す。

 

・悩(のう)

怨みつのった気持ちを思い返す心。忿や恨に続いて起きる。

 

・嫉(しつ)

妬み。嫉妬。

 

・慳(けん)

自分だけの利益を希求し続ける心のひとつの形。

 

誑(おう)

欺瞞。自分が徳のある人物であると見せかけようとする偽り。

 

・諂(てん)

へつらうこと。

 

・害(がい)

他者への思いやりがない状態。

 

・憍(きょう)

自己満足。自分は優れているという執着やおごり。

 

 

・無慚(むざん)

はじらいのないこと

 

・無愧(むぎ)

反省せず、世間体も気にしないこと

 

・惛沈(こんじん)

ふさぎこむこと。心が不活性。

 

・掉挙(じょうこ)

冷静さを失っている状態。

 

・不信(ふしん)

他者や事象を立場と都合の良し悪しで、信用するかどうかを決める心。

 

・懈怠(けだい)

悪を断ち切り、善を修する努力を尽くしていないこと。

 

・放逸(ほういつ)

なまけること。

 

・失念(しつねん)

物忘れ。気づきを失った状態。

 

・散乱(さんらん)

集中力がなく心が定まらない状態。

 

・不正知(ふしょうち)

理解力の欠如。認識不足。

 

 

 

煩悩に当てはめる

 

何かを体験したとき、何かを見たとき、聞いたとき、触れたときなどの後に(または同時に)必ず、思考や感情、イメージなどが生じるはずです。

 

 

その思考や感情、イメージがどの煩悩から生じたのか?を「根本煩悩」と「随煩悩」に当てはめて観ることをお勧めします。

 

 

これを日々、繰り返すことで自分が何に囚われているのか?煩悩がどれくらい強いのか?などがはっきり見えてくるはずです。これが自分を観るということであり、自分に対しての「気づき」でもあるのです。つまり瞑想ですね。

 

 

自分を観ることで、自分への気づきが深まれば深まるほど、煩悩を始め思考や感情の囚われが小さくなっていきます。思考や感情に囚われにくいメンタルも養われるでしょう。

 

 

これは冷静にその場に応じた適切な対処ができるようになることだけでなく、自分の人生をきちんと歩むことにもつながります。

 

 

自分自身を観ること、煩悩を観ること、それと合わせてマインドフルネスの実践や瞑想に取り組んでみてください。最初は意識的な努力が必要ですが、続ければあなたの人生が激変することを約束します。