慈悲の瞑想

 

マインドフルネスの瞑想の一つに「慈悲の瞑想」という実践があります。

 

 

念じることで自分や他人、この世の生命すべてに慈しみの心を作ることが目的とされています。

 

 

 

以下は「慈悲の瞑想」の言葉になります。

 

私は幸せでありますように
私の悩み苦しみがなくなりますように
私の願いごとが叶えられますように
私に悟りの光が現れますように
私は幸せでありますように(3回) 

 

私の親しい生命が幸せでありますように
私の親しい生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の親しい生命の願いごとが叶えられますように
私の親しい生命に悟りの光が現れますように
私の親しい生命が幸せでありますように(3回) 

 

生きとし生けるものが幸せでありますように
生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように
生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように
生きとし生けるものに悟りの光が現れますように
生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

 

私の嫌いな生命が幸せでありますように
私の嫌いな生命の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな生命の願いごとが叶えられますように
私の嫌いな生命に悟りの光が現れますように 

 

私を嫌っている生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命の悩み苦しみがなくなりますように
私を嫌っている生命の願いごとが叶えられますように
私を嫌っている生命に悟りの光が現れますように

 

生きとし生けるものが幸せでありますように(3回)

 

 

この言葉を毎日繰り返し念じることで心が変わり「禅定」に到達することもあると言われています。

 

 

 

「慈悲の瞑想」では変わらない

 

本当に「慈悲の瞑想」の言葉を念じるだけで心が変わるのでしょうか?

 

 

自分を含めた他の命にも慈悲や慈しみを向けることができるようになるのでしょうか?

 

 

答えはノーです。

 

 

いくら念じても言葉を繰り返すだけでは心が変わることはありません

 

 

心は自分の心の深い部分と向き合ったときにだけ変化が起きます。

 

 

自分と真正面から向き合い「今ここ」の気づきを大事にすることを継続することでしか、心の変化は起きないのです。

 

 

ある言葉を繰り返し念じるだけで、心が変わるのであればこれほど簡単なものはありません。

 

 

 

関係がより悪化した

 

ここで実際に合った例を一つ紹介します。

 

 

ある50代の男性が10代の娘との関係に悩んでいました。

 

 

様々な本を読んだりセミナーなどに参加して、コミュニケーション法を学びましたが娘との関係は一向に良くなりません。

 

 

そんな時に「慈悲の心を持てば人間関係は上手くいく」という話しを聞き、某瞑想センターに通い「慈悲の瞑想」を学び始めました。

 

 

半年間、瞑想センターに通い「慈悲の瞑想」の言葉を念じ実践を続けました。

 

 

その結果、娘との関係は良くなったのでしょうか?

 

 

無理でした。

 

 

なんと関係が良くなるどころか余計に悪化したのです。

 

 

「慈悲の瞑想」にしっかり取り組んだのに、なぜ娘との関係がより悪化したのか?あなたはわかるでしょうか?

 

 

 

慈悲はクセになる!!

 

「慈悲の瞑想」の言葉を念じ続けると次第に変性意識状態に入っていきます。

 

 

変性意識とは日常の意識とは違う状態のことです。

 

 

変性意識状態に入ると、幻聴や幻覚が生じることがあります。

 

 

幸福感が高まったり、慈悲の心が自分に宿ったような感覚になることもあります。

 

 

これはそんな感覚になっているだけで実際に人格や精神性が高まり、慈悲の心が宿ったわけではありません。

 

 

誤解を恐れずに言えば、アルコールで酔った状態とあまり変わりません。

 

 

変性意識状態特有の心地良さにハマる人もいます。

 

 

問題なのは、これを繰り返すことで自分自身と向き合う力が弱くなり、「慈悲の瞑想」の言葉に逃げ込むクセがつくことです。

 

 

「慈悲の瞑想」の言葉を念じることで「人間関係の問題が解決する」と言う人がいますが、それはありません。

 

 

人間関係の問題を解決したり良くしたいのであれば、自分と向き合い、他人と向き合う必要があります。

 

 

それは慈悲の言葉に逃げ込んだりする現実逃避ではありません。

 

 

現実をしっかりと観る(マインドフルネス)ことなのです。

 

 

 

慈悲を持とうとしない

 

慈悲の心とは「結果」です!!

 

 

瞑想を続けた結果、慈悲の心が宿るのであって慈悲の心を持とうとするものではありません。

 

 

慈悲の心を持とうとするのは、思考レベルの話しであり囚われているに過ぎません。

 

 

「慈悲の瞑想をしないとダメだ」と言う人がいますが、そのような人間は他人から見ると違和感の塊にしか感じません。

 

 

それに気づかないのは本人だけです。

 

 

囚われが強く自分の状態に気づけていないので、正しい瞑想など出来ていません。

 

 

しかし本人は慈悲の心を持っていると思い込んでいるのでたちが悪いのです。

 

  

 

自分と向き合うべきだった

 

先ほど紹介した男性が「慈悲の瞑想」に取り組み、娘との関係がより悪化した理由が見えてきたのではありませんか?

 

 

彼は娘と向き合うことをせずに、自分の思いや自分勝手な考えの囚われが強くなったのです。

 

 

もちろん本人はそこに気づいていなかったでしょう。

 

 

強い囚われは雰囲気や態度、所作などに表れ違和感として全て相手に伝わります。

 

 

娘はその違和感をキャッチして、父に対する嫌悪感が増大したのです。

 

 

娘との関係を良くしたいと望んでいたであれば、この男性は「慈悲の瞑想」に逃げ込まずにしっかりと自分と向き合う瞑想をするべきでした。

 

 

 

慈悲とは結果

 

先ほどお伝えしたように慈悲の心は「結果」です。

 

 

目の前の現実に意識を向けて、自分と向き合い、感じるということに日々取り組む。

 

 

それを繰り返していくとある時、自分の内側から目の前の事象に対する感謝の気持ちが自然と沸いてきます。

 

 

全てに感謝の心が広がり、それが「慈悲の心」に変わるのです。

 

 

これがマインドフルネスの瞑想や実践に取り組むと慈悲の心が宿る理由。

 

 

慈悲の言葉を唱えるだけで、慈悲の心が宿るという都合の良いことは起こりません。

 

 

慈悲の心という言葉に囚われてはいけません。