マインドフルネス瞑想の実践の一つに「慈悲の瞑想(Metta Meditation)」というものがある。
これは、自分自身や他者、そしてこの世のあらゆる生命に対して慈しみの心を向ける伝統的な実践法だ。
しかし
「言葉を唱えるだけで人間関係が良くなる」
「唱えるだけで心が浄化される」
と安易に考えてしまうと、かえって逆効果になることをあなたはご存知だろうか?
本来の目的は、念じることで自分や他人、生命すべてに対して「慈しみ」の心を育むこと。一般的には以下の言葉を唱える。
【慈悲の瞑想の言葉(抜粋)】
私は幸せでありますように
私の親しい生命が幸せでありますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
私の嫌いな生命が幸せでありますように
私を嫌っている生命が幸せでありますように
この言葉を毎日繰り返し念じることで心が変わり、「禅定(深い集中状態)」に到達することもあると言われている。
本当に、これらの言葉を念じるだけで心は変わるのだろうか?
自分を含めた他者へ、本当の意味での慈悲や慈しみを向けられるようになるのだろうか?
厳しいようだが、答えは「No」だ。
言葉をただ繰り返すだけの行為では、根本的な心の変容は起きない。
心が変わるのは、自分の心の深い部分と真正面から向き合ったときだけである。
もし、ある言葉を繰り返し念じるだけで人格が変わるのであれば、これほど簡単なことはない。
「今、ここ」の自分の感情や状態への気づき(マインドフルネス)を継続することでのみ、本当の変化は訪れる。
ここで、慈悲の瞑想を「現実逃避」に使ってしまったことで、かえって状況が悪化した実例を紹介する。
ある50代の男性は、10代の娘さんとの関係に深く悩んでいたが、様々なコミュニケーション法を学んだが関係は改善しなかった。
そんな時「慈悲の心を持てば人間関係は上手くいく」と聞き、瞑想センターで「慈悲の瞑想」を学ぶ。熱心に「慈悲の言葉」を半年以上も唱え続けた。
しかしその結果、娘さんとの関係は改善するどころか、さらに悪化してしまったのだ。
なぜ、「慈悲の瞑想」にしっかり取り組んだのに、関係が悪化したのだろうか?
理由は明確だ。
彼は「娘」という目の前の現実と向き合うことをせず、「慈悲の言葉を唱える自分」に陶酔してしまったからだ。
「自分は慈悲深い人間になろうとしている」という独りよがりな思い込みや囚われは、言葉や態度の端々に「違和感」として表れる。
娘さんはその父親の不自然な雰囲気(現実を見ていない態度)を敏感に感じ取り、嫌悪感をさらに募らせてしまったのだろう。
関係を良くしたかったのであれば、瞑想の言葉に逃げ込むのではなく、自分自身の至らなさや、娘に対する本当の感情と向き合う瞑想をするべきだった。
「慈悲の瞑想」を実践していたり、推奨している人を知っているが、その多くがこの父親のような感じになっているように見える。
慈悲の瞑想の言葉を長時間念じ続けると、「変性意識状態(トランス状態)」に入ることがある。
これは日常の意識とは異なる状態で、一種の高揚感や幸福感を感じたり、自分に慈悲の心が宿ったような感覚になったりすることだ。
しかし、これは脳内の一時的な感覚の変化に過ぎず、実際に人格や精神性が高まったわけではない。
この変性意識特有の心地よさは、ある種の依存性を伴うことがある。
問題なのは、この感覚を求めて瞑想を繰り返すことで、辛い現実や自分自身と向き合う力が弱くなり、「慈悲の瞑想の言葉」に逃げ込むクセがついてしまうことだ。
これは心理学的な用語で「スピリチュアル・バイパス(心の問題を直視せず、精神修行に逃避すること)」とも呼ばれる状態である。
「慈悲の瞑想を唱えれば問題が解決する」ということはありえない。
人間関係を良くしたいのであれば、悩みや問題を解決したいのであれば、自分と向き合い、他者と向き合うという、泥臭く現実的なプロセス(マインドフルネス)が不可欠なのだ。
では、どうすれば本当の慈悲の心を持てるのだろうか?
重要なのは、慈悲の心とは「結果」であるという理解だ。
誤り: 慈悲の心を持とうと努力して、言葉を唱える。
正解: 自分と向き合い続けた結果、自然と慈悲の心が湧いてくる。
「慈悲の瞑想をしないとダメだ」
「慈悲深くなければならない」
という思考は、新たな「囚われ」を生むだけ。そのような作為的な態度は、他人から見れば違和感の塊でしかない。
目の前の現実に意識を向け、自分の感情から逃げずに「感じる」ことに日々取り組む。
これを繰り返していくと、ある時、自分の内側から目の前の事象に対する感謝の気持ちが自然と湧いてくる。
その感謝の広がりが、やがて本物の「慈悲の心」へと変わる。
都合の良い魔法の言葉を探すのではなく、まずは「今ここ」の自分自身をしっかりと観ることから始めてみてほしい。